当日配布する男の娘ノベル「ボーイチェンジガール」のサンプルです。本編はこれの三倍くらいの内容があります。赤くないです。買ってくださった方には、ちょっとしたおまけをつけますよー。




ボーイ チェンジ ガール

プロローグ ~ 決意の先に待つもの ~







 静かだった。

 昼間はむせかえるほどの人の波を見てきたのに、今はその気配も感じられない。草木も眠る「ウシミツドキ」、空気さえも眠っているかのように静かだった。私は、そんな世界に向けて窓を開けた。誰も起こさないように、ゆっくりと。こんな時間に寝間着を着ていないと言うのは、それだけで背徳感と冒険心が交錯する。

やめるなら、今のうちよ。

ううん。たった一日だけだもの。

未だに後ろ髪を引くのは天使か悪魔か。それを振り切って私は外へ飛び出した。下は草地。前転して勢いを殺し、そのまま木蔭へ身を潜める。ここまではイメージ通り。私ってばニンジャね。

一瞬警報装置でも鳴るかと思ったが、ウシミツドキはそれさえも眠るらしい。私はそのまま低姿勢のまま、できるだけ音を立てずにこの世界と外の世界を隔てる壁へと向かった。

ごめんね、お父様。お兄様。そして、皆。アステールは一日だけ悪い子になります。今回ばかりは、今までみたいにお利口に、敷かれたレールを走る事はできません。自分の目で見て、自分の肌で感じて、自分の頭で考えたい。

ねぇ、マリー。間違って、ないよね? 

一歩一歩、自分の考えで踏み締める外への足取りが、ドキドキとゾクゾクで私の体を締め付けようとしてくる。

ダメ。緩めちゃダメ。あともう少し。この鎖が引き千切れるまで、あともう少し。

私の前に立ちはだかる塀。柵ではなく、塀。ここから覗くことさえできない高い境界。見上げたその先には、私を待っているかのように明るいまん丸の月があった。

「待っててね」

 バッグを塀の上に投げ、私は木によじ登った。そこから、塀の上に跳び移る。振り返れば、私を閉じ込めてきた大きくも狭い檻。私の部屋に、人影が見えた。見慣れた、人影だった。

眼前広がったのは、深く暗く広い大都会の一角。さながら、大海を望む航海士の気分だった。 

 この先に、私が求めたものがある。私が、許される世界がある。

 高く思えた塀は、越えてしまえば思いのほか低かった。降りた先は冷たいコンクリート。私がいた、無意味に温かい世界とは違う。

 やっと、思う存分に試せる。

 私は、心の昂りを、そして口元が緩むのを抑えきれずに、深夜の新世界に向かって走りだした。

















 初めて感じたのは、「異端感」。

 ただ自分の好きなように感じて、好きなように生きていただけのはずなのに、回りの目は嘲笑的だった。逆にどうしてだろうと不思議だった。綺麗じゃないか。美しいじゃないか。花が可憐だと、ぬいぐるみが可愛いと、アクセサリが華やかだと思わないのだろうか。美しい物を、身につけてみたいとは思わないのだろうか。

 そう思い始めたのが幼稚園の頃のこと。皆は「男のくせに」と後ろ指をさす。理解することも言い返すこともできずにただただ泣いていた僕を守ってくれたのが、椿田香菜(つばきだ かな)。僕の、幼馴染だ。僕らは男だとか女だとか関係なく、綺麗なモノは綺麗だと、互いの宝物を共有し合った。

あれから十年。世間の偏見はなにも変わっていなかった。

「芳(かおる)ー! 帰ろー! 一緒にー!」

 僕の友だちの数も、変わっていなかった。

「あ、ちょっと待ってて。この宿題を先生のところに届けてから帰る!」 

 僕は僕で、わからないなりにも、そんな世間に溶け込んでいた。生まれつき体は強くなく、男とは思えないほど手足が細い。そのうえ母に似たのかその骨格を受け継ぎ、見知らぬ人にも素で女性と間違われる日々。それ自体は、嫌じゃなかった。問題は、戸籍上男と言うだけで、男として生きなければならなかったこと。

「じゃあ待ってるからー! 昇降口のところでー!」

 香菜はサラサラのロングヘアーを揺らしながら跳ねるように教室を飛び出す。香菜の動きを見るたび、実は本来自分に割り振られるはずの体力が、香菜に取られたのではないのかと思ってしまう。

日直の仕事を終え、トロトロと昇降口へ向かった。と、その時。

「よぅ! 芳!」

クラスメイトが声をかけてきた。ただそれだけのことが、僕には珍しくて、振り向くよりも驚きを隠すことでいっぱいいっぱいだった。

「な……何?」

「なにそんな腰引けてるんだよ。男だろ?」

 これだ。これが、僕には癪にさわってたまらない。別に嫌いなクラスメイトじゃない。でも、絶対に、好意はいだけなかった。

「今からカラオケ行くんだけどさ、よかったら芳もー」

 おい、バカ、隆!

 後ろから別のクラスメイトが呼びとめる。そして彼は、素早く耳打ちした。僕には、聞こえない声で。聞こえなくても、もうその口の動きを見ればわかる。散々、言われ続けてきたことだから。

 ――――「そいつ、あっち側だぞ」

僕に声をかけた彼は、すごい勢いで眉根を寄せた。そして、僕に気をつかっているのか、それでも隠しきれない確かな「軽蔑」の目で僕を見下ろす。……僕の身長は一六○足らず。幾度となく、見降ろされた。それは同じ目線から見るよりも強調される「失望」。

違う。僕は、そんなんじゃない。ましてや、そういう病気でも無い。ただ、美しいモノが好きなだけだ。そりゃあ、身につけてみたいと思ったことだってある。いっそのこと、女の子として生きてみたいと思ってみたことだってある。でも、そんな考えをしているやつがいるから……お前たちみたいな偏見の塊みたいなヤツらばかりだから―――― !

「芳ー? 何してるのー?」

 昇降口の外から覗き込む香菜を見て、僕はその場を逃げるように退散した。

 僕は許せなかった。例え僕が同性愛者だとしても、それを同じ人だとして見ないようなあの態度。確かにマイノリティかもしれない。でも、だからといって、どうして鼻つまみ者にされねばならないのか。

それが、その声が、ここでは、誰にも、どこにも、届かない。

「どうしたの? なにかあったの?」

 立春を過ぎながらもまだまだ凍えるような北風を吹き付ける冬空。暮れかけの陽に照らされるすこし寂しそうな街並み。だけど彼女といるならいつも楽しかった。でも今日は、さっきの事がどうにも払拭できず、まっすぐな彼女の瞳を見つめ返すことができなかった。あぁ、いつもの事だ。今さらだ。僕は、北極に生まれてしまったウサギだ。

「……そうだ芳! 今日は発売日だよ! 「ウィークリーブライダル」の! 本屋行こう!」

 そんなウサギに寄りそう、もう一匹のウサギ。いや、北極ウサギか。僕は、彼女無しに、この世の中を生きられない。今回もまた、彼女に力を分けてもらう。

「……うん!」

 跳ねるように駆けだす香菜。振り返るその表情、顔つきには今も幼さが残る。気が置けない。アンダーフレームのメガネは陽を優しく照り返し、幅広で鮮やかな色をしたマフラーは舞うように翻る。純和風な雰囲気を漂わせるしなやかな漆黒の髪は、キラキラと輝いていた。

 それは、夕日を宿したオパールのように輝いて見えた。





『ウィークリーブライダル』。それは、女性の美しさを最大限に引き出す最終兵器「ウェディングドレス」を、ふんだんに特集している、僕の愛読書。

 幾百もの花をモチーフにし、四季を彷彿とさせるデザインの数々。毎週変わる特集に、僕は心を躍らせる。それはさながら、子供のころに図鑑一つにわくわくしていたような、あの感覚にも似ているのだ。

「ねぇねぇ芳」

 隣で同じ雑誌を読んでいた香菜は、目線を雑誌に落としたままだった。

「芳はさ、もしも女の子だったら、着てみたい? ウェディングドレス」

 そりゃあ……。そんな妄想、何度繰り返しただろう。似合う似合わないなど関係なく、綺麗なモノを身につけてみる。僕が、絶対に、できなかったこと。そんな当たり前のこと、どうして今更。

「……もちろん」

「こんな感じに?」

 香菜が見せてきたそのページには特集記事が。大きな文字で飾られ、祝い報じられていた。

――――【オーレリア王国王女、来日!】

華やかなお姫様が、オープンカーから優雅に手を振っている写真。何百何千もの民衆が、それを歓迎していた。

黄金色のウェーブがかった長い髪。品格ある優しい顔立ち。宝石にも似た蒼い瞳。白桃のようななめらかな肌、色。そんな人間と言う名の宝のような人物は、アステール・オーレリア。千年に一人と謳われる絶世の美女を、僕が知らないわけがなかった。

 綺麗だった。

 いや、綺麗と言うか、同じ人間の顔をしていながら、男女の話関係なく、もはや別の生き物に見えるほど、美しかった。

「ちょっと、次元が違いすぎるかな」

「でも、女の子になるってことは、こういうことだよ」

 その言葉は、いつもの香菜からは想像つかない、冷たい言葉だった。まるで、今までのやりとりに実は違和感を覚えていました、とでも言いたそうな。返答次第では、僕の評価が大きく変わってしまうかのような。

「まぁ、極端な例だけどね」

「……どういうこと?」

「芳は、これを見て思ったでしょ? 「綺麗だな」って。でもね、私はそうは思わなかったの。ううん。確かに、綺麗よ。本当に、うっとりしてしまうほど綺麗。でもね、それよりも……」

 香菜は珍しく言葉を濁す。

 僕にとって女性と言う生き物は、対岸の満開の桜。遠くて、でも美しくて。そして儚げで。

 もし、例えそれが、実は違ったとしても、僕はそれを今見たい。もっと近くに行きたい。少なくとも、今この岸辺にいることよりも、素敵なモノが見られると、そう思ったから。

「香菜」

「何?」

「前言ってた、『アレ』」

「あぁ、『アレ』? どうかしたの?」

「……明日、やってくれ」

 それを聞いた香菜は、少々驚いたような顔をした。けどその顔は、すぐに真面目な、まっすぐな目をした顔になった。

「いいのね?」

 そして、少しばかり、ニコリとした。

「うん。お願い」

 これは、逃避なんかじゃない。新たな世界への、第一歩なんだ。

求めていたモノが、きっと、ある。



~~



今日は日曜日。ドキドキしながら、そしてワクワクしながら、彼女の家のインターホンを押した。元気よく出てきた彼女に案内されたその部屋には、コレクションしているのかと思うほどずらりと並ぶボトル、ボトル、ボトル。

「もう一度聞くけど」

「うん」

「いいのね?」

「うん。たった一日だけでもいい。もっと、知りたいから」

「……わかったわ」

 香菜はそう言って、深呼吸を一つ。前髪をかきあげたその奥には、闘志にも似た熱い眼差しがあった。

「私は、待っていたわ。この時をね―――ッ !」

 ロングヘアーをグッとかきあげ、香菜はあっという間にポニーテールを作った。香菜の手つきは、ランチタイムの厨房のシェフを想像させるほど素早く、次々とボトルのふたを開けていく。手にはなにやら柔らかいハンペンのような真っ白い物質と、絵の具に使うような筆の数々。

「あのさ」

「あまり動かないでね。ずれるから」

 真剣に僕の肌に何かを塗りつける香菜。その眼差しを直視できず、僕はただ香菜に委ねて目を瞑る。

「香菜は、僕に、どうなってほしい?」

「どうとも。私はただ全力で支援したいだけ。芳が生きたいように生きることに、ね」

「そうは言うけど、昨日のあの言葉は……」

「あぁ、気にしないで。綺麗なところだけ見ているのだったら、ちょっと痛い目見るかもよ、って思ったけど。芳の事だもの、そんなこと、わかってるよね。ごめんね」

 正直、あの記事に関して香菜が綺麗だということ以上に感じたこと、まだよくわからなかった。あまり、僕にとってはいい感情じゃあないんだろうな、ってことだけ。

 香菜は、何かわかっているのだろうか。

 ……いや、何かわからなくても、その先に、何もないわけがない。それもすべてまとめて、今に踏み切ったんだ。怖くなどない。心配すべきは、自分が、変われるかどうか。新しい僕が、世界に溶け込めるかどうか。

「心配しないで」

ボトルの中身は化粧液か。その慣れない匂い、触感、誰かが自分の肌に触れる感覚。どれもこれも、初めてのことだった。だけど、香菜のその手が、機械よりも速くて、正確なことがわかった。そして心地よくさえあった。

「あなたは、もうすぐ女の子。絶対に、後ろ指は指させない。誰もが振り返る、私なんかよりよっぽど素敵な女の子にしてあげるから」

 この世界に、幾度となく嫌気を覚えた。それでも、香菜がいれば怖くなかった。いつだって手を引いてくれた。今だって、誰にも見せられないことを、香菜は嫌な顔一つせずにいてくれる。香菜は教えてくれるんだ。

 僕は、前だけをみていればいいのだ、と。

「……ちょっと顎上げて。……目閉じて。……そう、OK。……顎引いて」

 それにしても、香菜とは付き合いが長かったが、ここまで至近距離で見たことは今までなかった。少し、ドキドキする。香菜の髪の微かな甘い匂いが鼻孔をくすぐる。この時間よ、もう少し長く―――

「――よしっ、できた! 我ながら素敵な出来だわ。腕をあげたわね! 私!」

 うつらうつらし始めていた意識が、釣りあげられたかのように急浮上した。香菜の手際の良さにつられて自分の動きも自然と速くなる。

「よし、次は服よ。どれが好き?」

ベッドに投げ出された香菜の私服は、どんな洋服店よりも輝いて見えた。今まで手をつけることさえできなかったものが、今僕の手の届くところにあるそれだけで、心が躍り昂った。

「こっち? こっちがいいかな? でもこれも捨てがたい……」

 ハンガーを持ったままコロコロと服を当てては変えてゆく。

その目つきには、子供の頃の、着せ替え人形で遊んでいた時の純朴さが見えた気がした。

「よし、これがいい! これにしよう!」

 それは、甘い匂いさえ香りそうな微かなカスタード色のカーディガンと、漆黒の夜空を切り裂く流れ星を彷彿とさせる白いラインの入った、ブレザー基調のきめ細やかな上着。鮮やかなマフラーは香菜とお揃いのモノだろうか。

ただ、スカートは思いの他短かった。

「こんなに短いの?」

「足綺麗なんだから出さないと。オシャレするなら多少の我慢は必要よ。貸してあげるから。温かいニーソ」

 そこタイツじゃないんだ。

 一瞬戸惑いを覚えながらも、僕は早速カーディガンに袖を通し、ブレザーを手にとっては、いつものように着た。

「あぁ、ダメダメ!」

「え?」

「袖の通し方は、こう」

 それは、優しく、優雅な袖通し。僕のように大ぶりでガサツな着方ではなく、服の一部一部を思いやるかのような優しい着方。こんな動作、誰にも見られないだろうに。

「女の子の基本は『誰にも見られないところから』よ」

 見透かされた。これが女の勘と言うやつか。

 いざスカートを履いてみると、それは見た目よりも短く感じた。これで、パンツが見えないのか不思議なほどに。そうでなくとも、ほんのわずかな風でもめくりあがってしまいそうだった。

「香菜! これ、寒い! 怖い! 恥しい!」

「確かにこの時期になったら女の子もズボンはくよ。それかロングスカート」

 こっちがいい? と取り出したそれは男性モノと何が違うのかわからず、ロングスカートもややもっさりして見えた。

「芳がイメージしていたモノとは少し違うと思うけど」

 えぇその通りです。

 香菜はにっこりとほほ笑むが、僕にはそれが意地悪く見えた。

「あぁ、あと! 芳、マフラー!」

「え? う、うん。巻いたけど?」

「違う! そんなにだらしなく巻いてたら見えちゃうでしょ! いい!? どんなに暑くても、絶対に取っちゃダメ。上着は脱いでもいいしニーソも脱いでもいいけどマフラーだけは絶対に、絶ッ対に、絶ッッ対に! ダメ!」

 ギリギリと絞殺する勢いで協調する香菜。言われてみれば確かに。そうでなくても、微妙なあごのラインを隠せて一石二鳥かもしれない。と、血が上り始めた脳は意外と悠長に理解していた。

「ウィッグはコレ。アクセサリはこの中かから好きなモノを選んで。髪型は後で考えるから」

 ミルクティーカラーのセミロング。綺麗なストレートは。内側は伸縮性のバンド状になっていて、僕のおでこに優しくフィットした。少し、帽子をかぶっているように温かい。

 そして僕は恐る恐る鏡の前に立つ。そこにいたのは、全く見知らぬ人。思わず、綺麗だ、と思ってしまったほど。

 十六年間、選ぶこともできずに放り込まれた「男」という枠組みの中で苦しんでいたヤツの面影は、どこか遠くへ消えてしまっていた。

 ――――誰にも後ろ指は指させない。素敵な女の子にしてあげるから。

 ただ、見た目を変えたにすぎないと言われたら、そうかもしれない。でもどこからともなく、初めて知る感覚が湧きあがってくるのを感じた。これが、女の子の感覚。

 ずっとあこがれ続けていた女性と言う世界への上陸。踏み心地からして既に違った気がした。それは、いつも自分が描いていた「もしも」を遥かに凌駕し、自分の力でもないのに自信のようなものさえもこみ上げてきた。

「あ、しまった」

 目の前に続く明るい道を感じていたその時、香菜は硬直した。

「ど、どうしたの……?」

 明らかにさっきの口調とは違う。香菜は押し入れの奥を見据えた。

 そして香菜は、ニヤリと口元を歪ませて僕を見た。

「終わってなかったわ。まだ」

 

 ~~



 いつも活気にあふれた近くの商店街は、今の僕には全く知らない別の町にいるように見えた。歩行感覚。頬を切る風。首元を髪の毛がくすぐる。自分の感覚が違うだけで、こうも世界が違って見えるのか。

ただ、二つほど悩ましいのは――――

「ごっめーん! 道が込んでて遅れちゃったー! 待ったー?」

わざわざ時間をズラして集合する意味があるのかと百回ぐらい聞いたが香菜は頑なに譲らなかった。化粧をし、服を着ただけで半ば満足しかけていた僕に対し、香菜は「街に行こう! 女の子は儚い生き物なんだから!」と僕を無理やり外へ連れ出したのだ。それが、一つ。

「う、ううん! わ、私も今来たところ!」

 何言ってるんだろう、僕。こんな学芸会みたいな事をするために、長年の悩みを決行したわけじゃない。ましてや、香菜が思い出してしまったモノのせいで、この不必要と思われる緊張感はより一層強まった。

 締め付けられる肩と胸部。初めて胸が「重い」と感じる。下半身は薄いもの一枚だけ。そんなほぼ直接外気に晒されている感覚が僕の中から落ちつきを奪う。そして何より、寒い。乾いた風がスカートの中を潜りぬけてゆく。それが、もう一つ。

「ちょっと芳! 声上ずってる! もっと自然にして!」

 香菜はこそこそと耳打ちをするが、どう考えても声が大きい。

「無茶言わないでよ! こっちは村を出た……いや、村を放り出された勇者レベル1だよ!? いきなりボスと戦わせないでよ!」

「わけわかんない比喩してんじゃないわよ! いくら新品とはいえ下着を貸すのはさすがに、というか超恥しいんだから!」

「そうだろうよ! まさかパッドまで入れられるなんて思わなかった! 香菜いつもこんなの付けてるの!?」

「ッ誰が――――」

 香菜は顔を真っ赤にし、それを体現するかのようにものすごい速度でバッグハンマーが弧を描いて飛んできた。

「――――貧乳だあああぁぁぁぁ!」

 なるほど。確かに大変だ。野郎は何かを晒して生きることは無いが、女性は定められたサイズを晒さなければならない。それも「大きい方がいい」という世間の常識に合わせて、気を使わなければならない。こんなことを、してまで。

 ならば今この姿は、どう見られているのだろうか。少なくとも僕は、今の一撃を女の子らしく受けることはできなかった。

 不様に尻もちをついた僕に、香菜は舌打ちをしながら手を伸ばした。

「なんか、芳。活き活きしてるね。ムカつくほどに」

 正直、自分でもそう感じる。確かに、この女性用の服と言うものはさながら地球外生命体のモノと言われても信じてしまうほど、今まで着ていたモノとは別物で、戸惑いは今も拭えずにいる。今の僕が、道行く人々にどう映っているのかもわからなくて怖くもある。

 それでも、異端的に見られていたあの時よりかは、自分の願ったことができている分、不思議とワクワクしていた。

「おかげ様で」

 そう言って、気を取り直して街を散策した。見慣れた通りも、よく行く店も、全てが新しく見えた。

「よう香菜ちゃん! 今日は芳君といっしょじゃないのな! ところでその美人誰だい!?」

「あらやだ香菜ちゃん、今からどこ行くの? 合コン? その子しっかり護ってあげなさいよ!」

「香菜ちゃん! 寄ってきなよ! 今ならそのお姉さん紹介してくれたらサービスしちゃうよ!」

 誰もかれも、僕が見知らぬ女の人であることを疑いもしない。騙しているようで少し気がひけたが、それ以上に面白かった。

 本当に僕は、女の子になれているんだ。憧れのファンシーショップに堂々と入れる。色とりどりの花が咲き誇るフラワーショップも、ゆったりとその空気を楽しめる。それどころか、それらの店の敷居を跨ぐただそれだけで、高揚感があふれ出し、十六年間貯め込んできた欲望が破裂したようだった。

「楽しい?」

 香菜は、誇らしげだった。

「うん」

 いつも遠目から見ていた花たちの奥には、眩しいほどの可憐な姿が隠れていた。心を花畑へと連れ去るような、果実をも思わせる豊潤で甘い香りが僕の体にしみわたる。

「死ぬまでに、花束を抱きかかえてみたいと思っていたんだよね」

「別に男でもできるだろうに……」

 もう、身も心も、女の子になっていた。僕は、この世界に認められているのだと、そう勘違いしてしまうほどに。だが、僕の体は思いのほか早くイエローアラートを鳴らした。それもそうか。悪魔だって、人間の体を乗っ取ったその日は慣らしに使うらしいし。それを思えば、慣らしというにはあまりにも激しすぎたと省みる。

 僕らはフラワーショップを後にし、商店街へと戻った。

時刻は正午より少し前。皆ごはんを食べに出てきたのか、人通りが多くなっていた。

「あのさ、香菜」

 そう言いかけた時、香菜は突然足を止めた。後ろを振り返り、激流に逆らうように人込みの中のどこかを見ていた。

「どうしたの?」

「……いや、ちょっとね」

 香菜の顔は、やや険しかった。僕の腕を掴んで、少し足早に人込みの中をくぐり抜けてゆく。

「つけられてるかも」

「え?」

「ストーカー……かな」

 一瞬、何を言ったのか分からなかった。香菜は僕を見ずに言った。そんなまさか。こんな白昼堂々?

「まぁ、気のせいかもね。気配が多すぎてわからないわ」

 気配、って……。普段そんなものを感じ取りながら生きてるのか。女の子と言う生き物は。

「少し、早めに帰った方がいいかもね」

「うん、大丈夫だよ。とりあえず今日は、満喫したし」

「今日は? 次あるの?」

 香菜は意外そうな顔をする。そんな顔をするほど、僕は楽しんでいないように見えたのだろうか。

「うん、たぶん」

 僕は、今溢れだしそうな興奮の数々を押さえることで精一杯だった。気配を見ながら生きることの大変さも、今の僕にはドキドキしてとまらなかった。きっともしも、それを押さえなかったら、香菜はまた怒るのだろう。わかっているよ、香菜。僕は、女の子だもの。

 

 楽しい時間は時の流れを加速させる。それは世界の真理。どうして楽しいほど時間はゆっくり流れてくれないのだろう、と。今ある程度の世界の法則を考えることができる頭を持ってしても、そんな子供じみたことを願わずにはいられない。

「もう帰っていいの? 本当に?」

「うん、大丈夫。ちょっと、はしゃぎすぎちゃった」

「だろうね」

 香菜はそう言って、おもむろにバッグからハンドタオルをとりだした。そして優しく、僕の額を拭ってくれた。

「いつか、できるようにしなきゃダメよ。自分でね」

「子供みたいに扱わないでよ」

「文句言わないの。ガールズビギナーさん」

 買ったモノはさほど多くなかった。だけどそれ以上の、かつてないほどのこの幸せは、両手で抱えてもこぼれてしまうほどで。

 帰り道さえ楽しく、今日の余韻にほっこりと浸っていた、



 その時だった。



「すみまセン。ちょっと助けてくだサイ」

 突如、白いまんじゅうみたいな帽子を深くかぶり、その上サングラスまでした人が僕の左腕にしがみついてきた。突然の事で、僕も香菜も魔法にかけられたように硬直してしまった。

「このまま、振り返らナイデ。変な人ニ、追われてイマス。少しダケデ、大丈夫デス。どうか、恋人みたいにしてくだサイ」

口調からしておそらく外国人。口元を見る限り女性だろう。一瞬ドキリとしたが、その女性の表情は硬く、それが異常事態であることがわかった。この人も、ストーカーの被害を……女の子って大変だな。つい振り返りそうになった首を強引に前へ向かせる。香菜もまた、それにつき従った。

 って、恋人? この人女性じゃないの? 

 賑やかな商店街の賑わいをはねのけるかのような緊張感。誰か僕らを付けているのか。ここでもしも振り返ったら、彼女の芝居がバレて襲いかかってくるのだろうか。

 彼女の足は自然と足早になる。人込みを縫うように突き進み、右へ、左へ。そして唐突に店の中に入っては「スミマセン、通りマス」といきなり店の奥へ侵入し、躊躇いも無く関係者用の扉をくぐる。慣れているのかと思うほど、マンガや映画でよく見た尾行の撒き方。一挙一動に、微塵のぶれも無い。しばらく路地裏を歩くと、地元民の僕も全く知らない道へ出た。

そして彼女はようやく足を緩めた。振り返り、明るみに晒された彼女の顔。帽子の中に隠されていたのか、帽子を取ったと同時に飛び出すかのようにこぼれる髪。彼女は笑顔で僕らに頭を下げた。

「本当ニ、ありがとうございマシタ」

帽子とサングラスの下に隠れていたのは、黄金色のウェーブがかった長い髪。品格ある優しい顔立ち。宝石にも似た蒼い瞳。白桃のようななめらかな肌。

間違えるわけが、なかった。

別世界の中だけの存在だと思っていた人が、今、目の前にいる。そのオーラ、圧力は、それだけで吹き飛ばされそうなほど壮大だった。

先ほどまで僕の腕にしがみつき、さながら恋人のようにと言っていたのは、かの国の王女、アステール・オーレリア王女だった。

「なにカ、おれいヲ、シタイ。そこデ、お茶デモ、飲みまセンカ?」

 ただでさえ、突然漫画のようなことが起きた上に、それが一国の王女だなんて。この状況を飲みこめる人間が果たしてこの世界に何人いるだろうか。硬直した首をギリギリと回して香菜に助けを求めたが、香菜も同様……いや、動揺していた。

「サァ、行きまショウ。日本(ここ)は寒いデース」

 そう言って、何のためらいもなく彼女は僕の手を握る。答えも聞かず、カフェに向かって僕を引っ張った。

 嘘だ。嘘だと言ってくれ。実は僕の勘違いでした。って言ってくれ。

チラと、時間を確認するために見たスマホには、「オーレリア王女、失踪!?」というニュース速報のテロップが。

 お願い。誰か。おまわりさん。速く来て。ここにいますから。オーレリア国の関係者の皆さまの気もしらずに、お茶飲もうとしていますから。



 ~~



 「お姉サン! この天ぷらうどん一ツ! えーっト、ニンニクスクナメヤサイマシマシアブラカラメ!」

 満足感に溢れた彼女に対し、店員さんは目を丸くしながら「て、天ぷらうどんですね」と何も聞かなかったかのように流した。その様子を見た彼女は、不思議そうに頭をかしげた。

「日本の人ハ、麺を注文する時、アレを言うんデショウ?」

「「いいえ。言いません」」

香菜と声がそろった。
 あたかも昔からの友だちかのように話しかけてくる彼女だが、僕らは、ごく端的な返答しかしていなかった。理由はただ一つ。「怖かったので」
 しかし、まさか喫茶店にうどんやら寿司やらお好み焼きがあるとは思わなった。綺麗な内装に反して、店内は混濁した香りが漂っていた。不快ではない。だが決していい香りではない。

彼女は僕らの言葉に対し少し残念そうな顔をするも、姿勢を整えてそれはそれは美しいお辞儀をした。

「申し遅れマシタ。私は、るいす・えいどりっくデス。いたりあカラきました。どうぞヨロシク」

 ヒマワリのような笑顔と言うのは、こういうのを言うのだろうか。屈託のない鮮やかな笑顔。

なんだこれは。笑えばいいのか。まさか、笑ったらどこからか殺されるに違いない。ならば、もしや、本気――?

「はじめて、日本ニ来ましタガ、怖い人、たくさんあるね。あ、今ハ、W大学デ、日本語ヲ勉強してイマス」

 チラと、香菜の方を見る。香菜もまた、僕を見た。香菜のその瞳には、「ダウト」と教科書体で大きく強く書かれていた。

 ……本気で言ってるんだな。

それで、僕らが信じると思っているのなら――――。

「あの、アステール・オーレリア様……ですよね?」

 ガタリと、彼女は目を丸くした。その音に、回りの客が反応する。彼女はそれに対し、慌てて帽子をかぶって誤魔化した。彼女は小さく、人差し指を唇の前に持ってくる。そして、先ほどの自信満々さはどこへやら。とたんに蚊の鳴く様な声で話し始めた。

「……どうしてバレたの?」

「大変恐れながらお伺い返しますが、どうしてバレてないとお思いになられたので?」

「……日本人の人が好きな服、調べタ」

「いえ、失礼ながら、服の問題ではございません」

「……けーさつ、言う?」

 彼女の瞳が潤みだす。陶磁器のようななめらかな手は、子ネコのように小さく震えていた。

「落ちついてください。まずは話していただけますか?」

「……私、知ってマス。それ「けいご」。デモ、私よくわからりまセン。だからふつうに話シテ」

「わかりました」

「ウウン。もっと、ともだちみたいニ」

 王族相手に、ため口で話せと。

「アステール・オーレリアの名のもとニ命じマス!」

 それ矛盾してないか。という突っ込みは喉まで出かかって止まった。それにしても、よくそんな言葉を……。とにかく、一国の姫君にそう言われてしまっては従わないわけにはいかない。こんなにも固いタメ口を使うことは、後にも先にも、今この時だけだろう。いつもの口調に、余計な力が混じる。

「……じゃア、僕らガ聞きたいことハ、一つダケ」

 芳。うつってる。喋り方。と、香菜は僕を小突いた。うるさい。わかってる。でもこれが限界だった。

「どうしテ、ここにいるノ?」

 自分でも不自然とわかる口調を、彼女は全く気にかけなかった。それどころか、彼女はそれを聞いてバツが悪そうにうつむいた。しばらく考えて、思い立ったように顔をあげてなにか言おうとするも、口が開くだけで声は出なかった。

 待つこと十分。天ぷらうどんが来た。

(薬指と中指、中指と人差し指の付け根に挟んで……それを小指で支えている……!? しかも慣れている……!?)

僕らは彼女の奇怪且つ器用な箸の持ち方を目の当たりにしながら平静を装って、語り始めた彼女の言葉を拾った。ただそれは、さっきのような恐れ知らずの軽快な話し方ではなく、自国の文法を直訳したようなお粗末なものだった。だから僕らは、すこしずつ少しずつ、暗号を解くように、その単語をかいつまんでいった。

…………

 話をまとめるとこうだ。

 ・今回来日したのは、日本の大財閥の御曹司との恋愛結婚。……を装った婿入り結婚のため。

 ・それが嫌だったので、逃げ出してきた。

 以上。

 開いた口が、ふさがらなかった。聞いてはいけないことを聞いた気がする。今になってようやく理解する。彼女は言葉を探していたのではなく、いわば国家機密事項を漏らすことになることを懸念していたのか。

「信じられないと思いマス。よくわかりマス。そしてそれを信じてもらうための説明ガ、できまセン」

 彼女の目には、このカフェに入る前のあのキラキラした面影は無く、悲しそうで、苦しそうだった。

「……いま、おいくつですか」

「ふつうに、話して。ネ? 私ハ、十六歳デス」

「お、同い年!?」

「私の国デハ、女の人ハ二十歳デ「イキオクレ」デス。ほとんどの女の人ハ、十五歳デ結婚しマス」

「それって……!」

「えぇ、おかしいと思いマス。でもそれが「伝統」デス。私の国デハ、女性ガ、とてもとても弱いんデス。女性に仕事はもらえないし、家にいろと言われるし、なにかと「女だから」といわれてル……」

 帽子を握るその手は、彼女の口の代わりをしていた。未だ体も頭も目の前の問題を飲みこめ切れず、質問すら浮かんでこない。それを手助けすることもできない。というより、どうしてやればいいのかわからない。計画も無く、ただ逃げてきたように見えるから尚更。

 彼女は、作り笑顔を浮かべて話をつなげる。

「こんな結婚、私は嫌デス。例えそれガ国民のためとわかっていテモ、私ハ『わかりました』と言えるほド、大人じゃなかっタ。そしてきっと、私ハもうすぐ連れ戻されル。そして、結婚させられル。だかラ! だかラ、せめテ! 私ガ大好きな日本ヲ、王女としてじゃナク、私としテ、見たかっタ。……だかラ、私は今。ここにいマス。一日ダケ……たった一日だけデ良いカラ!」

 それは、平和ボケと言われる国でゼロ歳から育った僕らには、想像絶する世界だった。

「だかラ、お願いデス!」

 彼女は身を乗り出して僕に迫った。眼前数センチ。ただでさえ吸いこまれそうな美しい瞳が、今度は逆に全てを見透かされてしまいそうな。彼女の眼力の前には、もしも「私と共に逃げてください!」と言われても、断れる気がしなかった。

「私と、デートをしてクダサイ!」

 訂正。その瞳には、ハートマークが映っていた。頬を紅潮させ、その鼻息はやや荒い。今までの空気は何だったのか。

 そこには、王女というオーラも、お忍びという危機感も何もなかった。

「……はい?」

 断れる気はしなかった。ただ、疑問心は隠しきれなかった。

どこからか入り込んできたスキマ風が、僕の股下をすり抜けていった。





つづく